明治13年(1880)以降、本格的に要塞の建設に着手した陸軍は、火砲をできるだけ国産品により整備することを計画しましたが、当時の製造施設の不備と造兵技術の未熟さのため、早期の国産化はできず、加農砲は、外国製品に依存するほかはありませんでした。
また、軍艦の性能が飛躍的に向上した第一次世界大戦後にあっては、旧式の火砲が無用の長物と化すなど、東京湾要塞は明治・大正・昭和へと時代が移るなかで、変化する戦略と進化する技術への対応を迫られ、その姿を大きく変えざるを得ませんでした。