東京湾海堡建設にたずさわった人たち

東京湾要塞生みの親、西田明則。

和算

西田明則(にしだあきのり)は、岩国(山口県)に生まれました。江戸時代の末、文政10年11月23日(1828.1.9)のことです。西田家は下級武士とはいうものの岩国藩の普請方・測量方を勤めており、明則の祖父は錦帯橋の修理を担当する技術者でした。安政3年(1856)、29才で家督相続をし、藩の普請方・測量方を受け継ぎました。仕事がら和算に長じており、それが技術の基本となっていたのではないかと推測されます。また、維新前に漢字廃止論を唱え、英学を学んだと伝えられており、きわめて革新的な人だったようです。

工兵大尉から建築家へと転身。

明治4年(1871)、44才の時、山縣有朋に招かれ、上京して兵部省ひょうぶしょうに勤務することとなり、明治5年(1872)、工兵大尉(こうへいたいい)になりました。その後建築家として活躍し、東京鎮台(軍団)の兵営、士官学校、靖国神社の建築などに従事します。

50代で東京湾海堡建設に関わることに…

西田明則が東京湾海堡に関わるのは、明治13年(1880)、陸軍参謀局の海岸防御取調委員になってからです。明治14年(1881)10月26日には、富津海堡(第一海堡)を含む湾口砲台の工事費の積算を行い、山県参謀本部長にあて、『東京湾口砲台建築費御下付ニ付上申』を提出しました。

自ら潜水服を着て海底調査も

大正11年(1922)の『西田明則君ノ紀念建碑趣意書』では、「氏は東京湾海堡工事完成のため、一身の栄達をなげうち、陸軍技師となった。海堡基礎の構築に際しては、堤頂が海上に現れるまでは毎朝3時、4時に横須賀の自宅を出て、帰宅は深夜11時に及ぶことがしばしばであった。その間、小船に乗って石材運搬船を指揮し、台風の被害に遭うことも数知れなかった。」と、その刻苦勉励(こっくべんれい)ぶりをたたえています。また、ときには自ら潜水服を着て海底の基礎を検査することもあったと伝えられています。

海堡建築に一生を捧げた西田明則

西田明則は陸軍技師として、あるいは嘱託として、明治36年(1903)、76才まで海堡建設に従事しましたが、明治39年(1906)5月21日、78才で亡くなり第三海堡の完成を見ることはできませんでした。 横須賀市の聖徳寺のしんばか(新墓)に西田家の墓地があり、「海堡を望み見ることができる場所に墓を建てて欲しい」という遺言に従い、その一隅に西田明則の墓が東京湾海堡を望んで建っています。